続・なぜ僕は薬剤師国家試験をいとも簡単に攻略できたのか【薬学攻略日記、第5回】
昨日、街の本屋で久しぶりに有機化学の教科書を眺めていてハッと気がついたことがある。(本屋に用事があった訳ではなく連れの付き添いで行った)
それは言うならば理解と苦痛の話。
当たり前だが日本語であれ英語であれ、僕は有機化学の教科書が理解出来る。
もちろんそれは基本が頭に入っているので、教科書に書いてある化学式を眺める事は苦痛でなく、懐かしささえ覚えてむしろ楽しかった。
ところでブログを読んでくれている薬学生の諸君は有機化学の教科書を読むのはお好きかな?
有機化学の教科書なんて眺めていると目眩がする人もいたりして。
あれ?
有機化学の教科書を読むのが楽しいって感覚、なんか変じゃない?
昔は有機化学の教科書を読むのって楽しかったっけ?
もちろん嫌いではなかったけど少なくとも”楽しい”っていう感覚はなかった。
思えば大学6年生の7月、大学院試験のためとは言え試験の1ヶ月ほど前から研究の後に大学の自習室で朝の4時、5時までほぼ毎日、有機化学の教科書(ウォーレン有機化学)を読んで問題を解く、というのを一生懸命にやった。
それでいて朝の9時前には講義の為に大学に戻ってくるのだから大したものだと、我ながらに思う。
そういう有機化学の勉強を1ヶ月も続ければ、ウォーレン有機化学の教科書は上下の内容を3回は読んだし、章末問題も2回通りは全て解いた。3回目にもなれば問題を見ただけで答えが解るもんだから、最後には過去に間違った問題だけを暗記カードに書き込んで裏に反応機構付きの答えを書いたものを自作してそれを眺めた。
この勉強が楽しいはずもなく、文字通り一生懸命だった。
それが今はどうだ、有機化学の教科書を読むのが楽しいだなんて。
どうして楽しいなんて感情が生まれるのだろうか。
スポーツドリンクを飲むように書いてある事が理解できる、読んでいて苦痛は感じない、嫌という感情もない。それでも楽しいと言う事にはならない。
それに加えて「あぁ、昔は一生懸命に勉強したな」という懐かしさが、きっと楽しいと思わせるのだ。
読書が苦手な僕はおおよそ本屋などには行かないのだが、有機化学のエリアからなかなか動けず何種類かの本に目を通してしまった。(一冊買おうか悩んだが90ポンドの値段を見てそっと本棚に戻してしまったが)
昔のアルバムを観るのはみんなも楽しいはず。それは懐かしさに他ならない。
さてさて、その甲斐あって大学院試験は合格できたし、聞いた話では大学院試験の有機化学の成績はトップで、僕も全問正解の自信があったから間違いないと思う。
有機化学に関しては国家試験に向けての勉強は一切やっていないし、模試、卒業試験、本番でも有機化学の問題は間違った記憶がない。
ここでハッと気がついた。
そうか、人間は理解しているモノは苦痛に感じないんだ。
逆に理解していない物をこれから理解しようとする時にはとてつもない苦痛を感じるのか。
そして、その苦痛を感じている時こそが成長のタイミングなんだ。
もうこれはハッキリ言って勉強も筋トレも同じで、自分に負荷をかけると苦痛を感じる、だけど成長するということ。
今まさに薬学生の諸君の中で、おおよそ薬学という勉強が苦痛で嫌に感じて参ってしまっている人。
それはとっても正常な状態であり、成長の過程だよ。
薬剤師になれた人は間違いなくその苦痛に耐えた人達。
薬学は自分には向いていない、勉強が辛い、ついていけないと感じるのは時期尚早ではないか、もう一度考えて見たら良いと思う。
タイトル「続・なぜ僕は薬剤師国家試験をいとも簡単に攻略できたのか」について核心的な答えを書いておくと、
国家試験の勉強以上の負荷を自分に掛け、それに耐え、無事に進級し、大学6年になる頃にはおおよそ薬学というものを苦痛に感じないレベルに到達していたからである。
(実際にそのレベルに到達するための勉強法に関しては下記のリンクが参考になる)
少しだけ今の自分の話をすると、英語の文章を読むのはかなり苦痛に感じるし、話をするのも苦痛だ。
最近は「あぁ僕は英語に向いていないんだな」と思って、英語力に関して諦めに近い感情になっていたのだが、今回の理解と苦痛の話を歩きながら閃いて、自分は英語と言う苦痛から毎日逃げよう逃げようと逃げる事ばっかり考えている事に気がついた。
それは自分が英語をまだ理解できていないから苦痛なワケで、この苦痛は成長に必要な当たり前の事だったのに、そんな事はすっかり忘れて居心地の良い有機化学の事ばかり考える毎日に「俺は有機化学が専門だから英語はそこそこで良い」とか思い始めている自分がいた。
それでいて偉そうに薬剤師国家試験をいとも簡単に攻略できた、なんて記事を垂れ流しているようでは自分もまだまだ青二才であるなと感じて今日の記事を書いた次第であります。
理解と苦痛の話、みなさんはどう思いますか?