Dr.ピペリジンのブログ

少年は思った、ドラッグストア でポテチ売りたいな。そんな気持ちで薬学に進学した人の後日談。お問い合わせも気軽にどうぞ。

退職につき

学生さんからメッセージの色紙をもらった。

 

嬉しいね。

 

嬉しいけど複雑な気持ちだよ。

 

たくさんのコメントで研究のアドバイスをいただきました。相談にのってもらいました。

 

みんなたくさんコメントしてくれてありがとう。

 

でもね。

 

みんなの研究に僕の名前は乗らないんだわ。

 

何もアドバイスしてない人は乗るんだけど。

 

2年のコンクルージョンはこれ。

 

1. 自分のテーマはやらせない。

 

2. 科研費は全額没収

 

3. 共著には入れない

 

4. 反抗したから就活では推薦しない

 

もうね、これだけで若手はアカデミックキャリア即死なんですよ。わかっててやってる。

 

これで平気で次世代の合成のリーダーになって下さいとかメッセージで書ける神経がすごいわ。ぽいしたけど。

 

決して反抗など認めない、という権力を振りかざしたいだけなんだろうけどさ。

 

流石に一生懸命検討した触媒反応とそれで論文化予定にしてた形式合成の結果をなんもやってない他大学の講師に渡すよう言われたらヤル気なくなるだろうよ。

 

そうでなくても普段から育児で文句言われまくってるのに。

土曜の昼、研究室に行けないだけで情熱が足りないんだと。

 

それでさ、海外からきたポスドクは土曜休みでオールオッケー。なんなら土曜休みで結果出しててexcellent!とか毎週言ってるのよ。

 

なんや。ニコチン単離しただけやど。

 

 

もう終わった事なんで。

前向いて行きます。

 

最後に

 

学生さんみんなありがとう!

大学のダイバーシティきらきら部門

大学にはライフステージに合わせた研究活動や女性の研究環境を整えることを専門にしているダイバーシティ部門なるところがある。

 

育休明けの女性研究者がスムーズに研究活動を再開したり、ライフワークバランスの浸透や男性の育休なんてのもこの部署の扱うところだ。

 

実際のところ、いじめっ子のいじめは見てみぬふりして、朝のあいさつ運動を誇らしげに語ってるような活動しかしてないので、まぁ現状あまり意味ない場所だよね。

学生の指導について

ある後輩が言った。

 

研究室は厳しかった。

だけどそれは日本の良さでもある。

出来ない自分がここまで出来るようになった。

 

厳しい環境だったからこそ成長したと学生が思うのは完全に洗脳で、真実は出来るヤツができるようになったというだけの話と僕は思っている。

 

指導する側は厳しくしないといけない病気にでも取り憑かれているのか、とにかくお前はダメだ!の烙印を押したくて仕方ない教員が日本には多い気がする。

 

僕がいた大学の先生達は基本そんな感じだった。

 

来週がポスター発表で今の状況が化合物データ2つしかない?どういう計画で実験してるのか?頭おかしいんか?来週までに化合物データ10以上に増やせ!

 

とめちゃくちゃ怒られて大学3年の時に1週間ほぼ寝ずに50実験くらいした記憶がある。(私薬のみっちり埋まった講義も全部出てたよ!)

 

これだけきくと実験の立て方がまずかったのだろうと思うかもしれないがこの話には裏がある。

 

さる2ヶ月ほど前に僕はちゃんと先生に化合物データを増やす方向で実験していいですか?と相談に行っていた。

 

先生はそんなんやらんで良いよ的な返事だったので、言われた二つの化合物データに関する実験をきちんとフォローする事に徹することにしたのだ。

 

来週がポスター発表に迫って進捗が気になったのか、ふと化合物データがいくつか尋ねてきて発覚したヤバい状況。

 

これはどう考えても僕が相談に行った時にきちんとポスター発表を見据えた計画を伝えるべきだし、僕はそういう方向で提案した事さえ、スルーされてしまった。

 

結果1週間で講義プラス50実験という厳しい指導を受けるハメになった。

 

この話、要するに自分はそういう提案がたかだか学部3年で出来ていたわけで、だからこそ今でも研究ができるヤツ、というだけの話といえる。

 

逆に上のような激烈指導で自分の4、5倍は実験させられてたであろう先輩達のほとんどは研究なんてもうやってないと思われる。

 

これ、なんか厳しくする意味、あるんすかね?

 

まぁ指導する側からしたら無制限実験させ放題で厳しく叱責して実験させてたら(素直な学生なら)成果は多く出るかもしれないので、味を占めてるのか?とも思われる。

 

因みに学生を厳しく指導するってのは、相当な労力が必要なのは間違いない。僕はそんなエネルギーはないし、実験者にこそ最大のリスペクトを払うべきとの考えがあるので、一緒に考えて、こちらが提案することに納得してくれれば実験をお願いする立場である。

 

この方針はオックスフォード大学で自分が受けた教育であり、それが世界一の理由の一つであろう。

 

日本は何位くらいだっけ?

 

厳しくしないで学生が成長できる指導や環境について教員側が多く時間を割いて考えるべきだと思う。

絵本「ちいさなねこ」の解釈

お久しぶりのイヨカンです。

 

最近は育児が忙しくて、というか日常家でパソコンを開く時間もスペースもなくてブログの更新はからっきしでしたが、二の足を踏んでたスマホででも書いてみるかって事で書くことにしました。

 

育児してたら沢山の絵本を読む事になります。

それで、まぁたいていの絵本は、とてもわかりやすく、シンプルな言葉で、ストレートに表現されてるものが多くて、その一方でストーリー性とか、奥深さ的なのは限度がありますね。

 

ところが今回タイトルに挙げさせていただいた作・石井桃子の「ちいさなねこ」という絵本の奥深さに感銘を覚えたので書いてみようと思いました。

 

まずストレートに読むと、主人公のちいさなネコがお母さんの見ていないスキに危険な外に飛び出して、男の子、車、犬と次々と危険が迫ってくるなかなんとか木に登って逃げて、犬に追い詰められているところを異変に気付いたお母さんネコが助けにけられて、最後はお母さんとほっと安心のシーンで終わるというものです。

 

ネコちゃんのイラストが可愛かったり、お母さんのスキをついて子供が勝手に危険なことをするのはよくある事、最後はやっぱりお母さんだね、という共感ものの絵本、というのが普通の読み方なんだと思います。

 

 

 

だけど、自分はこの絵本、最初に読んだ時から実は違和感を覚えました。

 

とおせんぼをした犬がネコちゃんに引っ掻かれて怒ってネコちゃんを追いかけるシーンです。

 

なんとか木の上に逃げたネコちゃんの木のしたで、犬はがんばっている。

 

木の下で犬はわんわん吠えている、ではなく、また木の下で犬は怒っている、でもなくて、木の下で犬はがんばっている、と表現されています。

 

作者はなぜがんばるという言葉をチョイスしたのか、自分は違和感でした。

 

国語力豊かに言えば、がんばっているという表現でも十分に状況を理解できるようにも思います。

 

そしてもう一つの違和感、それは、登場人物の男の子や犬、どちらもとても悪いようには感じられない点です。

 

もちろん子供向けの絵本なのでいきなり恐ろしい状況などはあり得ないわけですが…。

 

前置きが長くなりましたが、息子に何度も「ちいさなねこ」を読んで、そして毎日たくさん育児して、この絵本の別の解釈にたどり着いたのでシェアしますね。

 

この絵本でネコちゃんに降りかかる危険は、男の子、自動車、犬、降りられないくらい高い木。

 

さて、この危険のうち本当のキケンはどれでしょうか?

 

僕が思うに、この中で危険なのは自動車と木の上だけです。

要するに登場人物(動物)は全員、ネコちゃんの味方なんです。一つの家族を登場人物や動物に変えて絵本に表現しているんじゃないかなぁと思います。えーっと思った方はぜひ下まで読んでみて下さい。

 

ちいさなねこ: これは言うまでもなく赤ちゃん、あるいは子供。母親がずっと観ていないと勝手に危ない事をして、勝手にピンチになります。ウチの息子も椅子の上ではしゃいで勝手に上から落ちたり、坂道で走って転んでケガをしたり。まぁずーっと観ていてもこちらの隙をついたり、あるいは一瞬で危ない状況に変化するので、本当にハラハラですよ。

 

お母さんねこ: これも間違いなくお母さん。子供が困った時、結局なんとかしてくれるのは、たいていお母さんです。そして子供が1番安心できるのも、お母さんなんですね。

 

男の子: ネコちゃんを捕まえてイタズラしてやろうと思ってた悪ガキ、ではなくてですね。この先に行ったら車が通ってるから危ないよ!と一生懸命ネコちゃんを制止してた、きっとお兄ちゃんのような存在です。自分の息子もいつも危ないことをやりたがるので僕が止めようとすると、やりたいやりたい!という風にかんしゃくを起こして僕をべしべし叩いたり、頭突きしてきたり、引っ掻いたりします。絵本の男の子もネコちゃんに引っ掻かれて、結局自動車が通る道路に逃げられてしまいます。

 

自動車: これはそのまま、危ないものの象徴ですね。とにかく育児は危険がいっぱい。ウチの息子も公園の遊具で遊んでいて、頭から石の角に落ちそうになった所を友人(いわゆるパパ友)に助けられて本当にヒヤッとしたことがあります。あのまま頭から石の角にぶつけていたら救急車が必要だったかも知れません。

 

高い木: これも危険な象徴ですね。行きは良い良い帰りは怖い、とはよく言ったもので、育児をしていると、一体全体どーしてそんなコトにナッテルノ?と頭を傾げたくなるような、オーマイガッドな状況になっていることがたまにありますね。例えばベッドとベビーベッドの隙間に入って出れなくなって大騒ぎしてるとか…。

 

 

さて、いよいよ最後の登場人物、そしてこの物語の最もユーモアのあふれる存在です。

 

犬: ネコちゃんを痛めつける野生の犬。ではなくて、この犬、お父さんの象徴なのでは、というのが僕の考えです。え、ネコちゃんの家族なのに…犬?

 

うんうん、変ですよね。

 

本当に変ですか?

 

ネコと犬、別の生き物。

 

これが最大のユーモアなんです。

 

この物語は基本的には育児なんです。

赤ちゃんが勝手に危険な事をして、勝手に大変なことになって、最後はお母さんという世界中で無限に繰り返される育児の流れそのもの。

 

お父さんは育児にどの程度参加してますか?

 

裏を返せばお父さんは赤ちゃんの事をどれくらいわかってますか?

 

え?ぜんぜん分かってない!だって?

 

お母さんと赤ちゃんの声が聞こえてきそうですね。

 

育児のことを全然分かってないお父さん、もはや別の種族じゃない?っていう話です。

 

あるいは、もうお父さんは別の扱いでいいやって感じ。

 

犬はお父さんの象徴なので、赤ちゃんが危ないことをしようとしたら、もちろん止めますよ。

 

だけど普段育児をしてないお父さんに何かを止められては赤ちゃんも嫌ですね。

 

大泣きしちゃいます。

 

お父さんはどうしたら良いのか分からずにおろおろしてます。

 

これが当に、犬は木の下でがんばっている、という表現なんです。

 

お父さん、がんばっている、だけど全然泣き止まない!

 

結局最後はお母さん。

お母さんネコが犬に「ふうっ」と怒って「ちいっ」と怒って追い払いました。

 

という表現。

 

これはさながら、「もう!こんなちょっとも赤ちゃんを任せられないの!邪魔だからあっちいって!」と育児で役に立たないお父さんに怒っている母親のようではありませんか?

 

最後はお母さんが赤ちゃんをよしよしして一緒に横になって終わり。

 

と言う話なのではないかなぁ、とイヨカンは思ったりしたのでした。

 

かなり昔の作品ですから、男は仕事、女は家事育児というような時代なので、その頃は一つの家庭でももはやネコと犬くらい違う生活というのも珍しくなかったのかも知れません。

 

最近は男性の育児というものに世間の関心が高まっておりまして、当然私の勤務している国立大学様もダイバーシティ教育など力を入れておりますので、私の場合は育休を申請したところ退職を迫られたり、土曜の昼育児で研究室に行けない事について情熱が足りないと文句を言われたりほんとにクソでございます。

 

貴方のお家の旦那さんはどうでしょうか?

絵本「ちいさなねこ」の解釈

お久しぶりのイヨカンです。

 

最近は育児が忙しくて、というか日常家でパソコンを開く時間もスペースもなくてブログの更新はからっきしでしたが、二の足を踏んでたスマホででも書いてみるかって事で書くことにしました。

 

育児してたら沢山の絵本を読む事になります。

それで、まぁたいていの絵本は、とてもわかりやすく、シンプルな言葉で、ストレートに表現されてるものが多くて、その一方でストーリー性とか、奥深さ的なのは限度がありますね。

 

ところが今回タイトルに挙げさせていただいた作・石井桃子の「ちいさなねこ」という絵本の奥深さに感銘を覚えたので書いてみようと思いました。

 

まずストレートに読むと、主人公のちいさなネコがお母さんの見ていないスキに危険な外に飛び出して、男の子、車、犬と次々と危険が迫ってくるなかなんとか木に登って逃げて、犬に追い詰められているところを異変に気付いたお母さんネコが助けにけられて、最後はお母さんとほっと安心のシーンで終わるというものです。

 

ネコちゃんのイラストが可愛かったり、お母さんのスキをついて子供が勝手に危険なことをするのはよくある事、最後はやっぱりお母さんだね、という共感ものの絵本、というのが普通の読み方なんだと思います。

 

 

 

だけど、自分はこの絵本、最初に読んだ時から実は違和感を覚えました。

 

とおせんぼをした犬がネコちゃんに引っ掻かれて怒ってネコちゃんを追いかけるシーンです。

 

なんとか木の上に逃げたネコちゃんの木のしたで、犬はがんばっている。

 

木の下で犬はわんわん吠えている、ではなく、また木の下で犬は怒っている、でもなくて、木の下で犬はがんばっている、と表現されています。

 

作者はなぜがんばるという言葉をチョイスしたのか、自分は違和感でした。

 

国語力豊かに言えば、がんばっているという表現でも十分に状況を理解できるようにも思います。

 

そしてもう一つの違和感、それは、登場人物の男の子や犬、どちらもとても悪いようには感じられない点です。

 

もちろん子供向けの絵本なのでいきなり恐ろしい状況などはあり得ないわけですが…。

 

前置きが長くなりましたが、息子に何度も「ちいさなねこ」を読んで、そして毎日たくさん育児して、この絵本の別の解釈にたどり着いたのでシェアしますね。

 

この絵本でネコちゃんに降りかかる危険は、男の子、自動車、犬、降りられないくらい高い木。

 

さて、この危険のうち本当のキケンはどれでしょうか?

 

僕が思うに、この中で危険なのは自動車と木の上だけです。

要するに登場人物(動物)は全員、ネコちゃんの味方なんです。一つの家族を登場人物や動物に変えて絵本に表現しているんじゃないかなぁと思います。えーっと思った方はぜひ下まで読んでみて下さい。

 

ちいさなねこ: これは言うまでもなく赤ちゃん、あるいは子供。母親がずっと観ていないと勝手に危ない事をして、勝手にピンチになります。ウチの息子も椅子の上ではしゃいで勝手に上から落ちたり、坂道で走って転んでケガをしたり。まぁずーっと観ていてもこちらの隙をついたり、あるいは一瞬で危ない状況に変化するので、本当にハラハラですよ。

 

お母さんねこ: これも間違いなくお母さん。子供が困った時、結局なんとかしてくれるのは、たいていお母さんです。そして子供が1番安心できるのも、お母さんなんですね。

 

男の子: ネコちゃんを捕まえてイタズラしてやろうと思ってた悪ガキ、ではなくてですね。この先に行ったら車が通ってるから危ないよ!と一生懸命ネコちゃんを制止してた、きっとお兄ちゃんのような存在です。自分の息子もいつも危ないことをやりたがるので僕が止めようとすると、やりたいやりたい!という風にかんしゃくを起こして僕をべしべし叩いたり、頭突きしてきたり、引っ掻いたりします。絵本の男の子もネコちゃんに引っ掻かれて、結局自動車が通る道路に逃げられてしまいます。

 

自動車: これはそのまま、危ないものの象徴ですね。とにかく育児は危険がいっぱい。ウチの息子も公園の遊具で遊んでいて、頭から石の角に落ちそうになった所を友人(いわゆるパパ友)に助けられて本当にヒヤッとしたことがあります。あのまま頭から石の角にぶつけていたら救急車が必要だったかも知れません。

 

高い木: これも危険な象徴ですね。行きは良い良い帰りは怖い、とはよく言ったもので、育児をしていると、一体全体どーしてそんなコトにナッテルノ?と頭を傾げたくなるような、オーマイガッドな状況になっていることがたまにありますね。例えばベッドとベビーベッドの隙間に入って出れなくなって大騒ぎしてるとか…。

 

 

さて、いよいよ最後の登場人物、そしてこの物語の最もユーモアのあふれる存在です。

 

犬: ネコちゃんを痛めつける野生の犬。ではなくて、この犬、お父さんの象徴なのでは、というのが僕の考えです。え、ネコちゃんの家族なのに…犬?

 

うんうん、変ですよね。

 

本当に変ですか?

 

ネコと犬、別の生き物。

 

これが最大のユーモアなんです。

 

この物語は基本的には育児なんです。

赤ちゃんが勝手に危険な事をして、勝手に大変なことになって、最後はお母さんという世界中で無限に繰り返される育児の流れそのもの。

 

お父さんは育児にどの程度参加してますか?

 

裏を返せばお父さんは赤ちゃんの事をどれくらいわかってますか?

 

え?ぜんぜん分かってない!だって?

 

お母さんと赤ちゃんの声が聞こえてきそうですね。

 

育児のことを全然分かってないお父さん、もはや別の種族じゃない?っていう話です。

 

あるいは、もうお父さんは別の扱いでいいやって感じ。

 

犬はお父さんの象徴なので、赤ちゃんが危ないことをしようとしたら、もちろん止めますよ。

 

だけど普段育児をしてないお父さんに何かを止められては赤ちゃんも嫌ですね。

 

大泣きしちゃいます。

 

お父さんはどうしたら良いのか分からずにおろおろしてます。

 

これが当に、犬は木の下でがんばっている、という表現なんです。

 

お父さん、がんばっている、だけど全然泣き止まない!

 

結局最後はお母さん。

お母さんネコが犬に「ふうっ」と怒って「ちいっ」と怒って追い払いました。

 

という表現。

 

これはさながら、「もう!こんなちょっとも赤ちゃんを任せられないの!邪魔だからあっちいって!」と育児で役に立たないお父さんに怒っている母親のようではありませんか?

 

最後はお母さんが赤ちゃんをよしよしして一緒に横になって終わり。

 

と言う話なのではないかなぁ、とイヨカンは思ったりしたのでした。

 

かなり昔の作品ですから、男は仕事、女は家事育児というような時代なので、その頃は一つの家庭でももはやネコと犬くらい違う生活というのも珍しくなかったのかも知れません。

 

最近は男性の育児というものに世間の関心が高まっておりまして、当然私の勤務している国立大学様もダイバーシティ教育など力を入れておりますので、私の場合は育休を申請したところ退職を迫られたり、土曜の昼育児で研究室に行けない事について情熱が足りないと文句を言われたりほんとにクソでございます。

 

貴方のお家の旦那さんはどうでしょうか?

日本のアカデミック

今週とある学会がありスタッフとして参加しました。

準備含めて無事三日間を乗り切ることができてホッと一安心です。

 

ところでアカデミック最後の就活中。

 

今選考中のところがダメだったらアカデミックはさようなら。

 

ツイッターのニュ!先生、モロぴー先生に続いて。。。となるかもしれませんな。

 

さっさと辞めれば良いがな、とも思うけど。

 

講義は楽しい。研究も好き。申請書を書くのも結構すき。学会発表も好き。学生に教えるのも好き(上手ではないけど)。

 

ただ。

 

ただ嫌いなのは。

 

情熱=らぼ滞在時間

 

とかいう評価基準。

 

まぁそうでない場所もあるのかもしれないけど。

 

僕が日本に帰ってきたところは全てそう。

 

他所のそういうところを探す?

 

募集してない?

 

あ、そうですか。

 

次のボスは誰?

 

任期は?

 

任期中に深夜土日も仕事したら次の任期つきボジション獲得の時にちょっと助けてくれる?

 

いえいえ年齢40はもう大学からお断り。

 

誠心誠意尽くして先待っているのはこれ。

 

あそう。

 

なら土日育児したい僕は必要ないですね。

 

そういう人はお断りなんでしょう。

 

そういう人は日本のアカデミックには貢献できません。

 

不要人材。

 

え?大学ランキング落ちてますよね?

 

(失笑)

 

ごめんなさい。ほんと、これくらいしか、いうことがない。

ん、まぁ、いろいろそんなだからブログ更新止まってました。

 

あ、もうひとつ嫌いなとこが。

 

実験者へのリスペクトが。

 

日本はない。

 

全くない、とかではないかもしれないが。

 

海外のそれとは比較にならないレベルで実験者へのリスペクトが足りない。

 

助教ごときが。修士ごときが。

 

そういうセリフ、たくさん聴きました。

育児の限界

妻が育児の限界です。

リフレッシュが必要だということで僕が子供の面倒を見てその間に友達と会う予定を立てていたのですが、自分が職場で濃厚接触者となってしまい全てキャンセルになりました。濃厚接触者の家族は行動制限ないと言えばないのですが、日本なのでそこは遠慮してしまいますよね。自分は息子の面倒を見るのは一向に構わないのですが、発症して息子に感染るという可能性もあるので今はやはり無理です。

1ヶ月前から友達に会うのを楽しみにしていた妻。
その間に泣きながら家を飛び出して、一人になりたいと言って辛そうな顔で外食して帰ってきてからも無気力な表情でベッドで寝込んで朝になっても起きれないということがあったりして、本当に今回のリフレッシュは必要だったんです。

しかし僕が研究室で誘われて会食に行って、そしてその中の一人が陽性、濃厚接触者に。

感染のリスクがあるため自宅の寝室で自分は隔離していますが、寝室を僕が使っている以上妻はフカフカのベッドさえなくワンオペ育児になっています。息子の大泣きする声と妻の大きなため息が毎日聞こえてきて自分も悲しい気持ちですが、本当に大変なのは妻です。

大泣きしてる息子に妻が「恨むなら父ちゃんを恨んで」というセリフは一番辛いです。
家族に恨まれてまでアカデミアでいる理由はないよな、とも考えてしまいます。

気軽に会食もできない時代。

 

学会はオンライン、画面に向かってしゃべるだけ。会場ぎゅうぎゅうの二酸化炭素過多の薄暗い「こもった」部屋でプレッシャーを感じながら学会発表に臨む、それさえ学生は体験することなく卒業していく。悲しい時代です。

ところでアカデミックで上の世代の先生から「頑張るように」と言われたら、月ー土、朝から晩まで、休日祝日に大学にいることを賞賛したりする風潮が未だに残っていますが、自分はTHK大学で帰るのが早い(夜9時)、朝遅い(8時55分着)、休日祝日に大学にいない、等々、後半は本当に散々な日々でした。それでいて薄給。

僕は今も土曜日は大学に行ってますが、そうすると僕が一日いる日が1週間で1日だけ。

一方でオックスフォード大学は朝8時から夕方6時まで、土日祝日完全休み、ホリデーは年間で1ヶ月以上休んでいる人が多いのでは。



それで年間の論文数は日本と英国でほとんど同じ、注目度の高い論文は英国の半分以下。


鉄ゲタ履いてうさぎ飛びを強要する日本風研究スタイル。

いい加減にそれ以外のやり方ができないか考える時代が来てますよ。
みなさんはどう思いますか?